変化は突然やってくるものだけだとばかり思って生きてきているけど、それは自分が気付いていないだけで、刻一刻と変化し続けているものかもしれない。
こうしてキーボードを打っている時も、ご飯を食べている時も、映画を観ている時も。
その変化はとても小さく、意識していても見落としてしまうほどに分かりにくい。
その変化を見逃さなければ、大きな変化とかる前触れが分かるかもしれない。
ピンチをチャンスに変えられるかもしれない。
そのためにはどうしたら良いのだろうか。
正解は一つとは限らないし、その正解も全てに当てはまるとは言えない。
角度によっては不正解となることも多いはず。
だからこそその時の価値観によって正解が変わってしまう。
正解という言葉さえ、正解じゃないかもしれない。
納得という言葉の方がしっくりくる。
言葉は言葉数が多くなればなるほど、その言葉の重みが軽くなっていくと思う。言葉数が少なければ抽象的になり、多くなれば具体性が増す。
シンプルに考えては複雑に考えて、複雑に考えてはシンプルに考える
もしかしたらこれをその繰り返しを死ぬまでやることになるんじゃないかとふと思う。
だとしたらその事実を認めてこんなことに悩んでないで、さっさと自分の課題を見つけてそれを改善するべきだ。
しかしそれが出来ていないで、こうやってまた考えることを考えてる。
環境を変えても、本質的な価値観は変わってない。それが個性だと思って頑なになってい部分がある。
頑固だな。
でもそれは悪いことではない。
だって人は常に変化しているのだから。
進化なのか、進化による退化なのかはともかく、方向性は違えど必ず変化している。
ただ、気付いてないだけ。気づく必要もない人はそれで良いと思う。
歩いては立ち止まり、見渡し、考えてはまた歩く。
水のように生きる
そんなフラフラした生き方がしたいのかも?水のように高いところから低いところに流れ、器に注がれればその形に姿を変える。
しかし水としての本質は変わらない。
そんな生き方もありっちゃありだろう。
自分を試したい、ふとそんな感情があることに気づくが、よく忘れてる。
どんな環境下でも生きて対応順応できる事を、挑戦することを楽しみたいのかもしれない。
これは単純に停滞していることに対しての不安を払拭するための行動かもしれない。
もっと気づくべきところがあるかもしれない。
例えば安全の場所で眠れることへの感謝。ある一定以上の平和である国で暮らせている事など、当たり前過ぎで気づけてない。
気付いてもすぐ忘れてしまう事が多すぎる。
無知の知。自分は何も知らないということを知っている、ということはとても大事な事だと思う。
自分はただ一人じゃ生きていけない、周りの人の協力があるからこそ生活できているということに気づかなければ、いけないと思う。
無知の知。己の甘さを思い知らされる言葉だ。
しかしそこに甘んじる事なく、死ぬまで学び続けること。選り好みせずありとあらゆる物に興味を示す。
子供のような好奇心の塊であり続ける事ができれば、きっと死ぬまで楽しいに決まってる。
ああ、明日はどんな事が待っているのだろうか。
とても楽しみだ。
こんな取り止めのない、支離滅裂な話を打つだけでとても幸せだと思える。この時間がとても愛おしい。
自分のこと、大好きなんだなぁ、俺。それが確認できて良かった。
おやすみ世界。
明日はもっと良い日になる。