「常識を疑う」の常識をどこまで把握できているか

さっき気付いたこと。

自分の常識(固定観念)を疑い切れていない

疑っているつもりでも、実は底の方、遠くて見えない固定観念を疑えていない。
それは疑う余地もないという固定観念が邪魔をしているから。

例えば、「自分の満足」という点で、「健康を維持したい」があるが、

  • ちゃんと寝る
  • ラジオ体操
  • ヨガ
  • プロテイン飲む
  • 16時間断食
  • 腹八分目

を一日やるだけで、そこそこ満足できる。

ただこの「そこそこ満足できる」で落ちつける、満足できているという思い込みがあるのかもしれないのに、そこを疑うことをしていない。

つまり自分の常識を疑えていない。

直近でも人の話を聞いてて感じた自分の感情、考え方が必ず正しいとは思ってなくても、そこそこ正しいはずという思い込みがある。
この思い込み、疑いの余地のない常識が果たして本当に疑いの余地がないのかを疑う必要がある。

これって自分で気づくの本当に難しいと思う。人から指摘されたら「まぁそういう考え方もあるよね、人それぞれだし」で済ましてしまいがちだからだ。

結構、危ういのかもしれない…。

無意識に蓋をしていたり…

本当はしたいことがあるのに、無意識にそのしたいことに蓋をして、無かったことにしていることはないだろうか?

その蓋を蓋と認識出来ていない場合、したいことが無いと同然になってしまう。
これに気付けてなかったら?

これに気付けているという、判断基準(自己認識)ってあるのかどうか。気付いているつもりが、いつのまにか気づけなくなってた場合、どうやって気付けばいいのか。

めちゃくちゃ怖い…解決策あるのだろうか

SNSでもご購読できます。

PAGE TOP