design

今日という日は、生涯忘れられない日となるだろう、と言い切れるほどの出会いがあった。それは極ありふれた生徒と教師という関係でだ。

支援訓練校には元々就職するための実力を付けるために通っている。が、そのちゃんとしたいみをしっかり理解していなかったことを痛感させられた。

Webサイトを作れるようになったら就職出来るなんてことはない

そうなのだ。クライアントはWebサイトを作って欲しくて依頼してくるのだが、それはWebサイトが欲しいからではなく「事業の売り上げをあげたい」からそのツールの一つとしてWebサイトを欲しているわけだ。

つまりこのWebクリエイターの仕事とは「売り上げを上げる」という目標のためのツールの一つなのだここをしっかりと理解しているのとしていないのとでは、雲泥の差が出る。

そしてそのためのデザインであり、HTMLであり、ライティングという作業なのだ。

文章にして仕舞えば、なんだそんなの当たり前だろ、と一蹴されてしまうかもしれないが、改めて自分のやろうとしている仕事がどういう役割なのかが再確認できたことによって、今後の授業の取り組みから、普段の生活で視界に入る有りとあらゆるデザインに注目することが必要とされ、世にあふれるWebサイトを閲覧し勉強することも、ライティングによるデザイン構成などを学ぶ事が死ぬまで必要になった。

これはいい。目標が明確になった。素直にありがたいと思う。

文字という、自由と強さ

文字というのは書き手によってさまざまな表情を醸し出す。つまりスキルによって人を惹きつけることが出来る。これってとてもシンプルだけどとても強い。

読みたいと思わせるデザイン、内容のデザイン、感性のデザイン。

「売れた」と「売った」の違い。受動的か能動的か。

「どうしたら笑えるか」と考えるか、「なぜ笑ったのか」を考えるのか。

卵が先か、鶏が先か。

デバイスは違えど、文字が意味を伝えることには変わりない。

発信し、発言しよう。より多く、より細かく。

やりまくって数をこなして、質を上げる。その繰り返し。とても簡単。

問いを問う学ぶを学ぶ。

なぜ?と思うこと、少なくなってると思う。それって探究心が好奇心が少なくなってるのだろう。

もっと貪欲になれ。問いを問え。常識を疑え。ルールを見つけろ。興味持ったことに手を出す。それは全て「デザイン」という目標のために。

手代木講師に感謝。さぁ動くぞ。

運動習慣化

今週の運動報告。文字として残すと継続しやすいので記す。

8/9月曜日

  • 腕立て20
  • スクワット20
  • 腹筋20

昼過ぎから開始。これらを3セット。
スクワット、腹筋に関してはなんなく行えたけど腕立ては3セット目が結構きつくて途中から両膝ついて残りをやる。結構追い込めたのか、木曜日まで筋肉痛が残った。

8/12木曜日

  • 6:00から歩幅広めのウォーキング
  • 6:30から公園でラジオ体操と太極拳的な運動
  • 帰宅後筋トレ
  • 腕立て20
  • ランジ左右10
  • 腹筋30
  • 背筋20

これらを3セット。今回スクワットではなくランジを導入。スクワットとは違う部位を狙う。ハムストあたり?

背筋は今回から追加。腹筋鍛えるなら反対側にもアクセスしといたほうが無難かなーと。今のところ筋肉痛などは無し。

最後に太陽礼拝を2回やっておしまい。

月曜日の腕立ての後は程よい疲労感に達成感が感じられた。お手軽だがコスパの良い自己肯定感を得られる。

来週もぼちぼちやってきたい。

馳せる

やわらかいひかりにつつまれる。

こころはほどかれてなにもかんがえられない。

ふあんも、きぼうも、ことばさえもいらない。

ただただ、ふわふわとした、ここちよいかんじ。

とろとろとしたまどろみ、とけてゆく。

ああ。これか。

ああ。

五輪閉幕

17日間のアスリートたちの祭典が終わる。

開催直前まで五輪開催の賛否両論が繰り広げられていたが、始まってさえしまえば後は終わるまでしっかりと協力的な部分は素晴らしいなと思うと同時に、どこか主体のない国民性が顕になったような気がした。

良い意味でも悪い意味でも扱いやすい、というべきか。なんてね。

オリンピックマーチ

話は五輪の閉会式に戻るだけど、閉会式の選手入場時に流れてた曲が、なんか子供の頃の運動会で聞いた覚えのあるメロディに良く似ていた。

というかその曲だった。懐かしいな〜

こんな大舞台で親しみある曲流れるとは思ってもみなかったんだが、ふと逆にこの大舞台で流れるってことは本当はすごいメジャーな楽曲なんじゃないか?

と思ってググってみたら、古関裕而さんによって1964年東京オリンピック用にと作曲された行進曲「オリンピックマーチ」だった。

ん?オリンピックマーチっていうタイトルなの?この行進曲が?

えーーーーー!

オリンピックやん!まんまやん!

全然知らんかった!運動会のたびに聞いてた慣れ親しんだ曲が1964年の東京オリンピックに使われていた行進曲だったとは!だから運動会の時によく流れてたのね!合点いった!

しかもその行進曲を今回の2020東京オリンピックの閉会式の行進曲として使うセンス。カッコよすぎ。

そして感慨深い。時の流れを肌で感じられた気がする。

今の自分が今後の世の中に何か役立つことが出来たら。

いや違う、もっと強い思い。「世の中の役に立ちたい。」という願望。

という承認欲求じみたものが自分の奥に芽生えた気がする。

無欲。今ある幸せを感謝するっていう事には反してしまうのかもしれないけど、単純な欲求を自分の中から感じられたことに驚きと希望を見つけたような気がする。

シンプルに自分が欲しいもの。

それを曝け出せることの大切さ、重要さ。

もっともっと出していく。

これは願望ではなく、目標だ。

書いててそう思う。

言葉を選ぶ

歳を取る

毎年のように誕生日を迎えると、年取ったなぁと良く口走る。

一見何気ない言葉だけれど、「歳を取る」って聞くとなんか古くなってるようなイメージが思い浮かぶ。どちらかというとネガティブな印象。

これって何気なく発言した自分だけど、無意識に自分の潜在意識に教え込んでいたりする事がある。知らずに自らを追い込んでいる感じだ。

これを「歳を重ねる」と言ってみると、なんだか深みが増すイメージになる。

歳を重ねる

同じことを言ってるのに、感じ方がうんと違う。少し偉くなった気さえする。笑

普段何気なく発している、言葉。言霊と言うように、言葉には強い力がある。その言われた人や自分の意識に少しずつ積み重なって、そう思い込むようになり、そういう行動をして、そういう人生を歩むことになる。

つまり、生き方を変えたいというならまず意識を変えることが大事。

意識を変えるには、言葉を変えることが大事。

言葉を変えるには、物事の捉え方(考え方の視角)を変えることのが大事。

人はすぐに変われない

今まで生きてきた膨大な時間に受けた環境や物事の結果、今の自分がある。

なのでそんな自分をすぐに変えることはできない。変えられたとしてもすぐに戻ってしまう事が多い。

なので、ゆっくりと変化していこう。そしてその変化を楽しもう。

時間は誰にだって平等にある。遅い早いではない。

自分から動くことだ。やることだ。

まずは言葉から変えてみよう。感謝の気持ちを伝えよう。

伝えるとは言葉にして発する事。発すると言うことは相手に言ってると同時に、自分の潜在意識にも伝わっている。

言葉にして発すれば発するほど、現実となる。ならばネガティブな言葉よりもポジティブな言葉を発した方がなんとなく良い気がするの、わかるよね。

そんな気がする、っていう感覚はとても大事。

世の中は複雑なようで、とてもシンプル。

シンプルだからこそ、変えられるけど、変えるにはとても時間がかかる。だから今この瞬間から始める。

明日じゃなく、今日でもなく、今この瞬間から始める

その時間とは今この読んでる時間。1秒1秒が未来へと繋がる。

「世界は少しずつよくなりつつある」

こんなふんわりとした根拠のない意識の元に、生活していくと幸せになれる。

幸せになれる、ではなく幸せを感じられるようになるというべきか。

そしてその感じられる幸せはとても小さい。大きくなりにくい。

なのでそういう小さな幸せを多く増やす事が大事になってくる。

感謝を感じるのも幸せの一つ、感謝を伝えられるのも幸せの一つ。

笑顔を与えるのも幸せの一つだし、今こうして息が出来るのも幸せの一つ

探せば探すほど、幸せはあちこちにある。普段気付けてないだけなんだよね。

ただただ感謝する。今ある環境を感謝する。今この瞬間を感謝する。

これが大事。

感謝しまくろう。そしてもっと幸せになろう。そのルーティンを最大化していこう。

いつまで?そうだなぁ…控えめにいって

自分が死ぬその日まで」

かな。やっぱ。

簡単ではない。だけどやれないこともない。

幸せのルーティン

  • 言葉遣いをポジティブに変える
  • 人に感謝の気持ちを発言する
  • 日頃の小さな幸せを見つける

この3つをグルグルと繰り返して見ると、変われるよ。きっと。

頑張らなくていいから、具体的に動こう。

ちゃんちゃん。

姿勢

姿勢ってのは色々なものがあると思うが、その中で最近気になったのが「教わる姿勢」

先生・生徒という関係には上下関係があるように見えるけど、それらは未成年の義務教育においてのみだと思う。

先生と生徒がそれぞれにある程度の歳を重ねていると、上下関係は薄れ対等な関係が求められてくる。それは円滑なコミュニケーションという意味でもとても重要。

考え方一つなんだけれど、例えば生徒側が

  • 勉強を学ばさせてもらう(低姿勢/感謝)
  • 勉強を学んでやる(高姿勢/高圧)

または逆に先生の立場からするなら

  • 勉強を教えさせてもらう(低姿勢/感謝)
  • 勉強を教えてやる(高姿勢/高圧)

この考え方ひとつで受け取り方で、こうも感じ方が変わる不思議。

自分はどっちかなー。どちらの方がお互い気持ちよくコミュニケーションが出来るのか一目瞭然だよね。

そう頭でわかっていても、時として不条理な行動をとってしまうのが、人間性だよねぇ。

面白い、と他人事なら思えるけど自分の身に降りかかるのは嫌なので、気を付けようっと。

他人をジャッジしない、その代わり感謝する

これ大事だよね。思ってもいいけど口には出さない、更に言えば思うことも無いほうが、さらに幸せ。

ジャッジする暇があるなら、自分を磨きましょ〜って書いといて耳が痛い〜。

学ぶと真似ぶ

学ぶ事は、まず真似る。つまりまねぶ事で学ぶ。

真似する事学ぶ事。

本日の運動

基本的に月曜日と木曜日の週2回の運動を課す事にする。週2回に制限するの筋トレの効果を最大化させるためと、モチベーションの維持のため。必ずしも全てやる必要はない、もしやるとしても最低回数を1回とする。

目指すは死ぬまで健康。身体は最大の資本と意識するため。

週2回の運動内容

  • 早朝ウォーキング(歩幅広め、速度早め)30分
  • 最寄りの公園にてやってるラジオ体操に参加(第一、第二)
  • 太陽礼拝
  • 腕立て伏せ
  • スクワット
  • 腹筋

継続することに重きを置くとする。義務感からではなく、あくまでも自主的に行うこと。

気分を切り替える。終わった後に達成感と疲労感を楽しむ。

いじょ

読みたくなる文章

世の中にはいろんな文章が溢れている。

そのいろんな文章の中で、もっと読みたいと思う文章がある。

それって他の文章より何が違うのだろう。

今の段階で考えるに、一つは普段自分が何気なくでも興味を持った物事。

そしてもう一つはその文章の熱、重さ。筆者の人生経験からなるある一つの結論。

この二つだ。

そういった文章を読むと、違う角度からの視点や新しい視点など多くの気づきを頂ける。

そして何故か、自分が賢くなったかのような錯覚を味わえる不思議。

これが気持ちいいのもある。

今はインターネットなどで個人が発信しやすい。

だからか誹謗中傷も多くなってしまっているが、それでも僕は恐れず書いていくべきだろう。

自分の人生、想い、記憶、希望、未来、存在意義、迷い、不安、決断。

その時その場所で感じたことを書き留めておく、それがのちの自分の為にもなるし、まだ見知らぬ誰か他の人の為になる時もあるかもしれない。

ただただ、書いていこう。自分の心を。

そして出来るならば、読みたくなる文章を、書いていきたい。そう思う。

少しずつ少しずつ

変化は突然やってくるものだけだとばかり思って生きてきているけど、それは自分が気付いていないだけで、刻一刻と変化し続けているものかもしれない。

こうしてキーボードを打っている時も、ご飯を食べている時も、映画を観ている時も。

その変化はとても小さく、意識していても見落としてしまうほどに分かりにくい。

その変化を見逃さなければ、大きな変化とかる前触れが分かるかもしれない。

ピンチをチャンスに変えられるかもしれない。

そのためにはどうしたら良いのだろうか。

正解は一つとは限らないし、その正解も全てに当てはまるとは言えない。


角度によっては不正解となることも多いはず。

だからこそその時の価値観によって正解が変わってしまう。

正解という言葉さえ、正解じゃないかもしれない。

納得という言葉の方がしっくりくる。

言葉は言葉数が多くなればなるほど、その言葉の重みが軽くなっていくと思う。言葉数が少なければ抽象的になり、多くなれば具体性が増す。

シンプルに考えては複雑に考えて、複雑に考えてはシンプルに考える

もしかしたらこれをその繰り返しを死ぬまでやることになるんじゃないかとふと思う。

だとしたらその事実を認めてこんなことに悩んでないで、さっさと自分の課題を見つけてそれを改善するべきだ。

しかしそれが出来ていないで、こうやってまた考えることを考えてる。
環境を変えても、本質的な価値観は変わってない。それが個性だと思って頑なになってい部分がある。

頑固だな。

でもそれは悪いことではない。

だって人は常に変化しているのだから。

進化なのか、進化による退化なのかはともかく、方向性は違えど必ず変化している。

ただ、気付いてないだけ。気づく必要もない人はそれで良いと思う。

歩いては立ち止まり、見渡し、考えてはまた歩く。

水のように生きる

そんなフラフラした生き方がしたいのかも?水のように高いところから低いところに流れ、器に注がれればその形に姿を変える。

しかし水としての本質は変わらない。

そんな生き方もありっちゃありだろう。

自分を試したい、ふとそんな感情があることに気づくが、よく忘れてる。


どんな環境下でも生きて対応順応できる事を、挑戦することを楽しみたいのかもしれない。

これは単純に停滞していることに対しての不安を払拭するための行動かもしれない。

もっと気づくべきところがあるかもしれない。

例えば安全の場所で眠れることへの感謝。ある一定以上の平和である国で暮らせている事など、当たり前過ぎで気づけてない。

気付いてもすぐ忘れてしまう事が多すぎる。

無知の知。自分は何も知らないということを知っている、ということはとても大事な事だと思う。

自分はただ一人じゃ生きていけない、周りの人の協力があるからこそ生活できているということに気づかなければ、いけないと思う。

無知の知。己の甘さを思い知らされる言葉だ。

しかしそこに甘んじる事なく、死ぬまで学び続けること。選り好みせずありとあらゆる物に興味を示す。

子供のような好奇心の塊であり続ける事ができれば、きっと死ぬまで楽しいに決まってる。

ああ、明日はどんな事が待っているのだろうか。
とても楽しみだ。

こんな取り止めのない、支離滅裂な話を打つだけでとても幸せだと思える。この時間がとても愛おしい。

自分のこと、大好きなんだなぁ、俺。それが確認できて良かった。

おやすみ世界。

明日はもっと良い日になる。

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