コロナの後遺症

発症して14日間が経ち、発熱や下痢、倦怠感、喉の痛みなどは回復してきたが、まだ残っているものがあるのでそれを挙げる。

頭痛

激痛ではないがコロナで40℃の発熱で寝込んでいた時にも感じていた鈍痛の頭痛、そしてその時の独特の血というか、鼻の奥に感じる血の匂い。血というには語弊があるかもしれないけど、血の混じった香り。これがいまだに残り続けている。

病み上がりのこの時期だからかもしれないけが、このまま後遺症として残ってしまうのではと考えると怖くなる。コロナにかかる前と後では体調への変化があると思っていたが、これがもちワクチンを接種していた場合、違う結果になっていたかもしれないと考えるとそれもまた焦りに感じる。

倦怠感

大した運動をしない(太陽礼拝などの簡単な運動)での頭の位置が著しく変わる体制をとると、途端に立ち眩みが起こる。これも病み上がりだからかもしれないが、それにしても立ち眩みが多いので心配になる。

ただやれることは普段と同じことをして、今アでとこれからでどの辺が違うのかを一つ一つ確認していき、対策をするという事だろう。

不安は多い。ただその不安を恐怖に変えて、対策していく。それを続けていくしかない。

今日も呼吸を大切に一日を生きていこう。

ここに標す

まだ漠然とした未来だけ思い浮かべている己。その漠然をしたイメージをより具体的に必然としたイメージにすり替える。現実に肌に感じているかの如く、イメージし、膨らませ、実現する。

環境を作り、その環境に自分を投じる。

今の環境も前職と比べればIT業界という意味で近しい世界にであるが、ではこの世界が自分の欲している世界かと言えばそう言い切れない。近いだけだ。その認識に相違はない。

どう近いのかを説明が出来るか。自分の言葉で説明してみろ。その説明が自分を作る。

語りたいように語れば語りたい自分になれる。この世は言ったもん勝ち。無言も必要だが、無言でいいわけでもない。

言いたいことがるならしゃべれ伝えろ。そして実現させろ。

幸せになる勇気。勇気づけ。

シアワセ

幸せとはどうしたら増えるものなのか、だれが知ってるのか。もしくは幸せとは上限があるのかないのか幸せとは人によって判断基準が違うが、それを測るための世間一般的な基準とはどこにあるのか。

そもそも幸せはあるのか、ないのか。その答えすら出ていないのに幸せを求めることは果たしてそれは幸せなのか。

幸せを求めないことが幸せになるかもしれない、そういう幸せも幸せの一つになるのではないか。

つまり幸せとは、幸せだと感じられた瞬間が幸せ、という事になるのではないか。

幸せを探すのではなく、幸せを感じられる感性を磨く。これが幸せになるために必要になってくるのでは。

そんな答えがない答えを考えるのが楽しい午前一時。

デザインの話

デザインとは必ずしも整っているものとは限らん。整ったものが出てくるとも限らん。つまり未完で出てくるものもある、デザインの元となるデザインとも呼べないナニカ。そういう物もあるはず。

今の時代ではデザインとは到底呼べないモノも、あと10年すればそれはデザインと呼ばれるものになるかもしれない。その為に今こうしてデザインの元となる可能性がある可能性の元をつらつらと書いている。

この文章がデザインの元、未来のデザイナーの元になる可能性だってある。

そう、全てこの世界は可能性から出来上がっているといっても過言ではない。という言葉遊び。嘘から出た誠。嘘を誠とする力。その力とは継続の力かもしれない。

誰かに奪われたっていい、この考え方だって誰かの借りものなのだから。

借りてるうえで、使っているので誰かに貸したって良い。それを貸してまたよいものを借りればいいだけの話。

借り物競争。競争してるわけではないけどね。

物事の考え方も借りもの。服も借りもの。身体は親からの授かりもの。

唯一自分のものと言えるものってなんだろう。と考えたとき、感性、感情、などという感じるものについては自分のものと言えるかもしれない。

その感情を表現する言葉等は借りものになるのかもしれないけど。

借りてるものって世の中沢山あるんだよね。

借り上手になろう。

なつかしむ

時には来た道を振り返るのも良い。そこには確かに自分が生きてきた時間がある。

いつだって全力。その再確認。

0817雑記

8月9日にコロナにかかって今日で10日。症状も落ち着いて多少の頭痛、咳は残るものの体力は回復してきている。闘病の8割は安静だったため、夢を見る毎日だったがどの夢もなぜか仕事の夢ばかり。しかも意味もないコードをひたすらに修正しつづけるという悪夢だった。

それはさておき、体調がよくなり始めた8日目ぐらいから読み直していた「嫌われる勇気」の読書がすすんだ。2回目だが忘れている部分もも多く、こういう読み返しは定期的に必要だと改めて感じる機会となった。

元々本を読むのが好きな方ではなかったが、前職辞める3年位前から自己啓発本を読むようになり、読書という優雅な時間が増えてきていたが、転職し仕事に慣れる事が優先的になってた半年間はまともに読書に時間を充てる時間はなかった。仕事に慣れるつもりが、埋もれていたんだと思う。そしてそれが普通になっていた事に気付いていなかった。

就職は業界の入り口の為

元々ディレクターという上流工程をしたくてこの会社に入ったわけではない。入れる会社がここだけだったから、というのが本音だ。しかしはじめてのIT業界、web業界という事もあり、毎日が刺激的で残業も楽しい時間の一つであった。その楽しさから業務を熟すやりがいも少しずつ感じられていると思っていた。そう納得しようとしている、のかもしれない。

本当はもっと身軽に、デザインやコーディングがしたいはずだが、日々の業務に追われることで体が動いていることで安心している部分もある。人は何もしないよりか何かしている方が安心する傾向にあるからだ。いまの自分はこの状況にある。決められた業務をこなせば毎月決まった給料が振り込まれる。このシステムになんだかんだで安心しているのだ。

いつまで入り口にいるつもりのか

期限を決める。これは自分でやることだ。ただただ漠然と作業をしてはいけない。目的をもって動かなければならない。その為に常に考える必要がある。その為にこのブログをうまく使うのだ。良い人ではない、意志ある自分を貫け。

完璧ではなく、完了。スピードは武器。まだまだ物語は中盤。

毒抜き

毒をもって毒を制すように、コロナを制しているこの一週間。頭がボーっとするのも、コロナではなく薬のせいかもしれない。

今朝は久しく清々しい朝を迎えた。瞑想し、アファメーションし、イメトレし、運動して読書してこうして日記を書いている。まだ喉の腫れは続いているし、その為飲み物や食べ物が通りにくいけど、呼吸は出来ている。咳は出るが、それほどひどくもない。頭痛も知恵熱程度に感じられるまで軽減している。

キーボードのタイプミスを減っている。もちろん打ち間違えは発生するし、正しい指の配置で打てていることも少ないがそれでも文章を打つことが出来ている。

自分の意思を、言葉をweb上に伝え宇ことが出来る、その手段をツールを使うことが出来る。

何のために働いているのか、よく全体を見渡していこう。

終戦77年目の夏

体調不良で気が付いたらもう21時回ってたので黙禱は出来なかったが、夜やってたNHKの当時の戦況を語るドキュメンタリーに見入った。戦争を知らない世代になりつつあるが、現に今の時代にも戦争は起きている。自国が巻き込まれていなければ、それでいいのか。何をするべきなのか、動きながら考えながら気づけ。

コロナ陽性につき、絶不調

8/9よりコロナ感染。40℃の発熱は初老の体に堪える。8/12からは熱よりも喉の痛みが強くなりつばも飲み込めない状況。

健康って大事。しかしコロナのお陰でここんところ寝不足だった部分は解消。体力戻したい。

8/7の振り返り

8月に入って初めての日曜日、ではなく2回目の日曜日(危うく間違えるところだった)。

よく寝て英気を養った。スウィッチのゲームである「アルティメイト チキンホース」なるゲームがパーティゲームとして優秀だったので推薦し、購入に至っている。

少し3人で遊んだ。

喉元過ぎれば食べた事すら忘れる

モノを食べる時の一口の大きさ。そして口に入れたモノを食べるために動かす顎の力加減や嚙み合わせ方など、食べるという行為一つでも細かく分けていけば千差万別である。それなのだからこの世に同じ人間で同じ境遇の者など一人も居る筈がなく、そこを踏まえれば今この瞬間に、自分とは唯一無二の掛け替えのない貴重な人間、とも捉えることが出来るしそう捉えないことも出来る。

つまり、どちらの捉え方も自分次第ということだ。

その時どう感じるかはその人の気分次第の部分が大多数であり、これは何人たりとも例外はない。つまり日々を良くしようが悪くしようがどちらが良いとか悪いとかの判断はできないのだ。

ただ事実を見つめて迅速に動く。

この繰り返しじゃが勿論目標ありきだ。その目標とは誰の為でもない自分のための目標。

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