17日間のアスリートたちの祭典が終わる。
開催直前まで五輪開催の賛否両論が繰り広げられていたが、始まってさえしまえば後は終わるまでしっかりと協力的な部分は素晴らしいなと思うと同時に、どこか主体のない国民性が顕になったような気がした。
良い意味でも悪い意味でも扱いやすい、というべきか。なんてね。
オリンピックマーチ
話は五輪の閉会式に戻るだけど、閉会式の選手入場時に流れてた曲が、なんか子供の頃の運動会で聞いた覚えのあるメロディに良く似ていた。
というかその曲だった。懐かしいな〜
こんな大舞台で親しみある曲流れるとは思ってもみなかったんだが、ふと逆にこの大舞台で流れるってことは本当はすごいメジャーな楽曲なんじゃないか?
と思ってググってみたら、古関裕而さんによって1964年東京オリンピック用にと作曲された行進曲「オリンピックマーチ」だった。
ん?オリンピックマーチっていうタイトルなの?この行進曲が?
えーーーーー!
オリンピックやん!まんまやん!
全然知らんかった!運動会のたびに聞いてた慣れ親しんだ曲が1964年の東京オリンピックに使われていた行進曲だったとは!だから運動会の時によく流れてたのね!合点いった!
しかもその行進曲を今回の2020東京オリンピックの閉会式の行進曲として使うセンス。カッコよすぎ。
そして感慨深い。時の流れを肌で感じられた気がする。
今の自分が今後の世の中に何か役立つことが出来たら。
いや違う、もっと強い思い。「世の中の役に立ちたい。」という願望。
という承認欲求じみたものが自分の奥に芽生えた気がする。
無欲。今ある幸せを感謝するっていう事には反してしまうのかもしれないけど、単純な欲求を自分の中から感じられたことに驚きと希望を見つけたような気がする。
シンプルに自分が欲しいもの。
それを曝け出せることの大切さ、重要さ。
もっともっと出していく。
これは願望ではなく、目標だ。
書いててそう思う。